貨幣の生成と現実世界というゲーム発生とのアナロジーを考えてみよう
先日、Ultra Beer Bash というビールを飲みながら講演が聞けたりするテックカンファレンスに行ってきた。
そこで、Campfireさんのお金をなめらかにする という講演を聞いて、以前お金のシステムについて考えたことや調べたことをモレスキンにまとめてあったのを思い出して今回電子化することにした。
以下 2015/12/24 のメモからの抜粋
ゲームの発生
いったんゲームが定まったとしても、カオスのために、また無限に戦略空間を拡大していくために、ゲームの解が求まることはない。
そもそも我々はなぜゲームを行なっているのか。そのことは問うても良い問題だ。テレビゲームであれば、スイッチを切り、コンセントを引き抜けば終わりである。しかし、それはゲームの中の一つのゲームの終了に過ぎない。
あるとき、ふとゲームをしている自分に気がつき、その階層のゲームを終わらせることはできる。しかし、それはまた別のゲームの始まりであるかもしれない。
ゲームを始める理由は何だろうか。ここで貨幣の生成とのアナロジーを考えてみよう。
物々交換の経済システムに貨幣が誕生するのはどういう場合だろう
経済システムが複雑になってくると、自分が交換したいものを持っている人と出会って物々交換をしていては間に合わなくなってくる。そのとき貨幣は生み出される。
安富らがいうように、何が貨幣になっても良い。みんながそれと交換しても良いと信じるものが、貨幣の定義なのだ。
いったん貨幣が誕生すると、人々はそれが未来永劫変わらないものと信じ込む。しかし、それは誤りである。貨幣として運用されているものはあくまでシンボルであり、ソフトウェアである。人々に使われなくなれば、それで終わりである。
今まで貨幣として使われていたものは貨幣ではなくなり、他のものが貨幣に取って代わるだろう。
ゲームはどうだろうか
人々は色々な複雑な行為を会話を通じて相互にコミュニケーションを行う。社会が複雑になると、いちいち対応を考えていてはうまくいかなくなる。
そのときゲームが発生する。
一人でゲームのルールを決めても、みんながそれに従わなければ、ゲームにならない。しかし、みんなも同じゲームによる形式化を求めていたらゲームが発生する。
いったんゲームが人々の信頼のもとに生成すると、今度はそのゲームを絶対不変なものと考え、ゲームのなかでうまくやろうとする。しかし、ゲームは、複雑なコミュニケーションの一つの形式化、シンボル化に過ぎない。あるとき自分はゲームをしていることに気がつき、ゲームをすることをやめるかもしれない。今までのゲームは廃れ、新たなゲームが生成されていく。
この生成と消滅は、貨幣の生成と消滅のロジックと同じである。
ゲームの発生は、だから、コミュニケーションの複雑化と密接に関係がある。言語によるコミュニケーションというのも、みんなの合意の上に成り立っているゲームに過ぎない。研究もそうかもしれない。我々に必要なことはすでにあるゲームをうまくやることではなく、どんなゲームをやるべきか。を問い直すことだ。
貨幣の生成については以下が詳しい。
安富歩「貨幣の生成と自壊」現代思想(1994年6月)
The emergence and collapse of money
Physica D: Nonlinear Phenomena, Volume 82, Issues 1–2, 1 April 1995, Pages 180-194
Ayumu Yasutomi